1/29オープニングトークで話した事の一部

 この前の大阪での展示のオープニングトークで話した事をちょっとまとめてみました。序盤は俺がカンペを見ながら出品作の成立するまでの経緯を話して、その後、それを踏まえた上で小吹さんが色々質問して、最後に会場にいた方々からいくつか質問に答える、という形式でトークが展開しました。最初に自分が、作品の前提になるような話を準備しておかないと、トーク全体がぐずぐずになるかなー、という不安もあったので、カンペを作りました。以下の文章は、このカンペをまとめたものです。トークの時とは若干異なる内容になっていますが、自分の作品を観る上で補助線として機能すればいいな、と思います。
 今回の出品作である、大学を撮影したシリーズはこちらのリンクを参考にして下さい。http://f.hatena.ne.jp/areti/Zekkei/

今回の出品作は、山形県にある東北芸術工科大学という、私が学生として在籍していた大学の校舎内を、撮影場所として限定して写されたイメージの中から選ばれたものです。
何故、大学の中だけ撮ったのか。このシリーズの制作を始めたのが、学部4年の時、つまり私は大学の内側に充分慣れ親しんだ状態である。むしろ飽き飽きすらしている。その場所を、写真を使って捉え直す作業がしたかったのです。(撮影は学部4年時の2007年から始まり、卒業後研究生として1年間、その後もたまに大学に行って撮影した。現在は私が東京に引っ越したので、撮影はストップしている。)

自分がそう思う様になったきっかけを考えてみました。大学生1、2年生の頃、私もいわゆる写真学生として「写真といえば、やはり街に出てスナップ撮影だ」「とにかく沢山撮らなければ、良い作品は出来ない」といった強迫観念の様なものに捕われていました。(自分の好きな作家が、外に出て大量に撮影した中からセレクションするスタイルの人が多かった事も有ります。)おかげで毎日のように外に出て、その時、その場所で偶然出会った、面白い光景を写真に収めるという行為を繰り返していました。
こういう撮影行為は、「俺、毎日制作してるな」という強い充足感、満足感はありましたが、私はこれに疑問を感じることも次第に増えて行きました。
その疑問とは、その偶然出会った、自分の面白いと感じる写真的な光景が、自分にとってどのような必然性を持つのかという事です。
私たちが今生きている世界は、ある種、全てのものが映像化され尽くしてしまった世界と言えます。卑近な例を出すと、行った事の無い海外の光景も写真、動画で知っている。9.11のビル倒壊の映像がまるで映画を観ているような既視感を持つ。等等。それに限らず、あらゆる場所、ものは、あらかじめ映像にされた時に美しく見える様なデザイン、演出が施されている。自分の気に入る光景とはつまり、自然の配置、人の着ている衣服、建築物、工業製品、あらゆる写真作品からの記憶、そういった視覚情報の集積、組み合わせから選択を迫られるているに過ぎない。だから、外に出て歩くと、写真にしたら面白いだろう光景にいつか出会うのは当然の様な気がするわけです。光景はシステムによってあらかじめ用意されています。それは、本当に偶然出会った僥倖に過ぎず、その光景に対して、自分の意志や狙いを対立させる、余地が見つけられませんでした。街に出たところで、その街の事を何も知らなかった、というか...
だから、延々と「何も決めずに気になるものを大量に撮影していく」という制作プロセスは、一見、連続的に制作が続き撮影範囲も広範囲に広がって行くので、とてもアクティブな姿勢に見えます。しかし、実はあらかじめ作られたシステム、映像的世界のシステムに便乗して戯れている、受け身の行為に過ぎないのではないか、と私は考えるようになりました。(断っておきますが、この「戯れ」をずっと繰り返し続ける行為を私は否定するわけでは有りません。むしろこの行為を何年も繰り返し続けている人たちを尊敬しています。ただ、この戯れに途中で失敗し、ゲームから降りてしまう人がほとんどで、このシステムの波にのりサーフィンを続ける難易度はとてもとても高いもの様に見えます。私はこのサーフィンを続ける自信が無かったのが、正直なところです。)

そこで、逆説的な方法を採ってみる事にしました。全く外に出ない、ドメスティックなものばかり撮る、枚数も少なめに4×5フィルムで撮る、という方法です。
この方法によって、ずっと見続けている事で見えづらくなっていたもの、しかしずっと気になっていたもの、それらの何に魅せられていたか、その構造がより明確に見えるようになったと思います。よく知っている場所が写真として成立していく過程を見る事は、肉眼で見る事と、写真を見る事との「ずれ」を見る事でもあります。この「ずれ」を埋める為に、撮影を繰り返す、しかしバカスカ撮れないので、うまく行かなかった場合は良く吟味し、場所の持っている要素を、写真として新たに構成し直す、という行為の必要性を知りました。こうやって曖昧にしていた「見る」というものの構造を、映像に変換することで、明確にして行くのです。
写真にする事で、その場所から肉眼で見た時以上の発見を引き出せた場合、実は、その時こそ肉眼と写真とのずれが限りなく縮まり、フレームの中に、その場所の持つ構造の様なものが的確に収められているのではないか、と私は考えます。
もちろん、肉眼と写真とは、決定的に異なるので、ずれが完全に解消される事はありません。私は写真、映像への、対立、問いかけを続けます。